2014年11月21日、初めて読書会を開いて早8年が過ぎました。
『전래동화로 배우는 한국어』を読むのはしばらくお休みにして色んな試みをしていこうと思います。
オンラインでの読書会として、2020年7より開始し大好評の『우리 땅 기차
여행』を読んで仮想列車旅行をみんなで楽しく行ってきました。
2022年5月で終わり『조선텅신사』の絵本に入りました。
まず読書会の最初に、韓国の文化を知っていただくために、『생활 속 한국 문화 77』の中の季節にあった章を1章づつ読んでいます。
そして2022年6月より新たに日帝時代の独立運動家김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』を読んで行くことで、朝鮮末期から戦前までの韓国を知ることができるので選んでみました。
一人で読むには、根気がいるのでみなさんで読んでいけば続けられると思い読書会で取り扱います。
今は行けない韓国を知る読書会でありたいと思っています。
またオンラインになってからの『우리 땅 기차 여행』の読書会資料を公開しています。>>こちら
今年は自分の都合で、7、8、11月と3回もお休みしてしまい、申し訳なかったです。
10月下旬に怪我をしてしまい、家から殆ど出なかったため、朝鮮通信使が東京で初めて滞在した品川の東海寺も近くなのに行かずじまいでした。
江戸城は、絵画でしか窺い知ることができませんが、わずか数十年間で日本の首都の風貌を作り出した徳川家康から光圀までのその業績には目を見張ります。
朝鮮通信使も大阪以上の煌びやかさに感嘆した事は、通信使達が描いた日記から窺い知ることができます。
後半の김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』も読むのは難しいですが、色んな歴史上の人物が出てきてちょっぴり楽しくなってきました。
東学党は韓国の南部だけだと思っていましたが、황해도 해주성(黄海道 海州城)での戦いも壮絶だった事を知りました。
砂金が取れるという事で地方から労働者が集まってきたのに、「1894年6月に禁止となり、砂金採取労働者が職を失い、東学に入った為황해도 지역(黄海道地域)の東学軍は強力だった。」という事を調べていくうちに知りました。なので黄海道地域の東学党の兵士達は、略奪や殺人を繰り返し、この地域は東学党が引き起こす社会不安を解消するため、この地域の進士である안중근(安重根)の父・안태훈(安泰勲)が私財を投げ打って私兵を組織し、東学党と戦ったという事実を知り、中々骨のある人だなあと思いました。
さて今後の金九は、どのような道を歩むのか楽しみになってきましたね。
今月は甲府よりお伝えしました。
インターネット環境が不安でしたが、無事終えることができました。
前回は、多摩川迄辿り着きましたので、1年半の長い旅もクライマックス。
朝藤沢を出た朝鮮通信使は、多摩川近くの茶店で昼食をとり品川の東海寺まで、歩きます。当時の東海寺は、すごく大きかったようです。沢庵和尚が家光に披露したたくあんで有名になったそうです。
品川から浅草の東本願寺までの道は、大阪以上に栄えていて、通信使たちはすごく驚いたことでしょう。
残念なことに明暦の大火・関東大震災で江戸の街は、江戸城の建物は残されていませんが、明暦の大火以前の街並みや江戸城を背景に朝鮮通信使の行列を見ている自分を想像してみると楽しくなります。
国書を携えた輿を丁重に扱っている様子も絵本にでてきますが、現代の私には想像できないことでした。
来月は いよいよ将軍と正史の出会いです。
来月で全て終えられるか資料を作ってみないとわかりません。
後半は김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』。
東学党の中にも横暴な人がいて、味方のはずなのに、自分の利益のために 同じ東学の人々を平気で殺してしまうという事も描かれています。
こんな東学党に対して疑問を持った地方の進士が私財を投げ打って軍を組織した事も描かれていて、私の東学党に対する考えも少し変わってきました。まさしく안중근(安重根)の父・안태훈(安泰勲)です。来月は、金九の東学党の軍が消滅して안태훈(安泰勲)の住まいにご厄介になるシーンです。
興味ありますね。
今月は無事自宅からお伝えできました。
愛知県・静岡県・神奈川県と進んでいきました。
清洲城から始まって、舟橋をかけてはいけない大井川・橋も架けてはいけない大井川を渡ります。幕府の統治のためには。大井川は要所だったからだったと知りました。
冬の寒い時、担いで大井川を渡るという仕事は、人足さんにとってどれくらい大変だったか、そう想像するだけでも寒くなりますね。
東名高速道路で美しい風景として挙げられる由井ですが、近くに薩埵峠(さったとうげ) がありますが、箱根の峠越え位に厳しい道のりだったそうです。幕府が峠の一部を切り崩し、ある程度楽に行けるようになったことも知りました。
静岡市清水区にある清見寺は、当時のままに残されていて、朝鮮通信使に関する資料も沢山残っています。また、清見寺の2階から、眺める清水港は、さぞ美しかったことでっしょう。
来月は 川崎・六郷の橋から品川を経由して浅草の東本願寺までいきます。
次回で終わるかなと思っていたら、絵本にはまだ数ページ残っていて終わりそうにないです。
日本の旅から、後半は김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』。
東学農民戦争については、詳しく描かれていませんが、東学党がどうして消滅していくかは読んでいて想像できます。
これからは、韓国の歴史の中で馴染みのある人々が沢山でてくるので、馴染みやすいことでしょう。
美濃路の大きな川を舟橋で超えて、いよいよ徳川家ゆかりの遠江(とおとうみ)愛知県に入り、静岡県・神奈川県を歩いて行きました。
名古屋城が完成していなかったので清洲城に立ち寄ったようです。勿論宿場町として栄えていたようで、名古屋を訪れたら、清洲城模擬天守に立ち寄ってみたいですね。
今年の大河ドラマ『どうする家康』 で馴染みのあるところばかりでしたので、楽しいエリアでした。
後半は、いつも通り김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』を読みました。
偶然にも1894년(19세)に전봉준(全琫準)が蜂起した東学農民戦争も、北の해주(海州) でも盛んに戦った様子が描かれています。しかしにわかじたての兵士では、京軍・日本軍には太刀打ちできなかった様子が描かれていました。
おまけに貪欲な他の東学党の仲間に依って金九の軍は潰されてしまいます。
東学党が消滅してしまって、その後金九はどうなっていくのでしょう?
今月は釜山から3ヶ月ぶりにZoomで読書会をしました。
ホテルでのインターネット環境も良好で終わってほっとしました。
今月は、中山道から金井宿で美濃路に入りました。
美濃路で朝鮮通信使の為
に架けられた橋(揖斐川・長良川・木曽川)は、徳川将軍以外に渡ることができず、行事が済んだら全て取り払われてしまうことにみなさん感心していました。
そうですよね。いかに朝鮮通信使が徳川幕府にとって賓客だったかも知ることができました。
これまでの通信使ゆかりの地には資料がたくさんありますが、美濃路に入ると資料が極端に少なく探すのに苦労しました。
しかし朝鮮通信使の訪問は、当時の人々には印象的だったようで、今でもお祭りで披露される唐子踊りとして残されていますね。
来月は 名古屋から東海道を旅します。
後半は、김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』。
みなさんもよく知っている東学農民戦争がでてきたので、馴染みやすかったようですが、難しい表現が出てくるので、意味はわかるけど、声に出して訳していくのは難しいようですね。
朝鮮通信使の絵本を読んでいて、日本の見知らぬ地名や歴史も知ることができてよかったなあと思います。
今回の朝鮮通信使の旅は中山道をはずれ美濃路に入っていきました。
美濃路には揖斐川・長良川・木曽川は木曽三川と呼ばれ主に濃尾平野を流れています。絵本の中で舟橋は徳川将軍と朝鮮通信使だけが渡る川で一度かけられてもすぐに外してしまう橋だと書いてあります。それほど朝鮮通信使を貴賓客として扱ったことが窺い知れます。
この工事にかかる費用は、藩の財政によるもので庶民への負担を考えると大変だったことでしょう。
新幹線に乗っている時、この木曽三川を見かけたら、思い出しながら眺めてみたいものです。
後半には김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』を読みました。
1894년(19세)に전봉준(全琫準)が蜂起した東学農民戦争も北の、김창수(金昌洙)が東学党第二代教祖・崔時亨に会いに行ったことが描かれています。このあと、故郷の海州に戻って김창수(金昌洙)がどのように東学農民戦争に参与していくかは、10月の読書会で読んでいきます。
朝鮮通信使の絵本は、ゆっくり読んでいるので1年すぎてようやく滋賀県の朝鮮人街道に入ったところです。
昔琵琶湖を訪れた頃には、ほとんどその存在すら意識していなかったので、いつか時間をかけて歩いてみたいと思っています。
朝鮮人街道(41.2km)を歩いたブログによれば、3日程度かかるようです。中山道を東海道本線にある野洲駅(やすえき)付近から分岐し琵琶湖沿いを八幡・安土・彦根を経由して、滋賀県彦根市鳥居本で再び中山道に合流しますが、道標の碑があるようです。
東海道本線にある野洲駅(やすえき)を出発する特急「はるか」は、関西国際空港まで行けることも知りました。
以前、雨森 芳洲の生家のある滋賀県長浜市高月町雨森については、お話したことがるので省略しましたが、一度ハナソタマが直接訪れてからお話ししたいと思っています。
後半は、김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』は、科挙不合格など色んな試練を経て、東学党に入って活躍していく様子が描かれています。
しかも1893년(18세) 、東学に入信後동김창수(金昌洙)と改名し、東学思想と自分の考えが合致したことから色んな東学党の書物を読んでいきます。
次回は、東学党第二代教祖・崔時亨に会いに行くお話となっていきます。
朝鮮通信使の絵本を読み始めて、1年になります。早いものですね。
京都の三条大橋から大津へいく朝鮮通信使は、逢坂の関を通って近江路に入ります。
絵本では、もうわずかなページになりましたが、意外に資料が少ないのが、近江路から先の資料です。朝鮮人街道を抜け中山道を歩き美濃路を通り名古屋に入るルートを通って行くのですが、丁寧に記載されている文献が少ないのですが探していくのも勉強になります。
大津の事を調べていくうちに円山応挙の弟子である円山応震の『琵琶湖図』に出会いました。
実際に目の当たりに朝鮮通信使を見たわけでは、無いとの事ですが、この絵を見ていると、目の当たりに朝鮮通信使がいるような気になります。
今年こそは、琵琶湖に行って実物にお目にかかりたいものです。
김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』をゆっくり読んでいます。難しい漢語がでてきたりして、悩みますが、いよいよ馴染みのある東学党がでてきて嬉しくなってしまいました。
これから김구(金九)が東学党を経ていかに変わっていくか読んでいくのが楽しみです。
朝鮮通信使の絵本を読み始めてから、来月で1年になります。今回は夜のお友達が、忙しい中時間を割いて昼間来てくださり嬉しい限りです。
京都の三条大橋を渡った朝鮮通信使は、近江に行きます。
逢坂の関は、いくつかありますが大津に行く関跡は今でもバイクで行ったりする方もいるようですが、申維翰の『海游録』に依れば、当時かなり盛っていた宿場町だった事が伺われます。日本の朝鮮通信使に関する研究も申維翰の『海游録』をベースに行われているので、図書館などで日本語訳を読むのも良いかと思います。
今回は朝鮮通信使一行の中に参加していた人々についてのページがありましたので紹介いたしました。特に驚くのが마상재[馬上才] の馬術の妙義です。徳川家より特に要望があり、将軍にご披露したそうです。
通信使のそれぞれの役割について時間を割いたため、近江路について話す時間がなく来月話することにしました。
関東に住む人間にとって京都から大津というと1日かかりそうですが、半日程度で大津まで歩けるようです。大津は休憩のみで京都から草津まで1日で進むようです。
しかし申維翰の『海游録』では、正史が病気になり大津で宿泊したようです。
김구(金九)の『백범일지白凡逸誌』は、東学党に入るきっかけとなったこと、たちまち信者を増やしていったことが描かれていて、これまでとは違い知っている事がでてくるので面白くなってきたとみなさん期待しています。
これからも更に波瀾万丈な人生を歩んでいくのをじっくりみていきましょう。
真夏みたいな日々が続いたのに、今朝はとっても寒い日々が続いています。みなさまもさぞ体調をお崩しになるかと思いますが、いかがでしょうか?
釜山を立った朝鮮通信使は、これから陸上を進んでいきます。
京都では、通信使に出会うために文人や一般の人々も訪れます。特に有名な文人との筆談は現在でも残されていて、江戸の文化・儒教精神・医学・美術の隆盛に役に立ったことだと思います。
いつか機会があったら、朝鮮通信使が日本ににもたらした影響のお話を纏めていきたいと思います。
京都の耳塚の話が絵本に出てきますが、임진왜란(壬辰倭亂)で亡くなった朝鮮人の鼻を祀った墓です。
あるとき通信使が何故ここを訪れるのかと雨森芳洲とのいさかいがあった事が色んな文献をみると出てきます。以後耳塚は訪れない事になったようです。
当時の日本人にとってもショックだったようで、色んな絵画特に洛中洛外図屏風には、方向寺の横に必ずといって良いほど描かれていますね。
次回は大津に進んでいきますが、どのように纏めていけば効果的に説明できるか考え中です。
朝鮮通信使は、淀城の水車を見て感動したように琵琶湖の風景は、中国の湖を見るようだと感動したことなど、私の拙いスピーチでお伝えできるか不安ですが、来月もがんばりますね。
今回はヨンウ先生が夜に来てくださいました。韓国ではどうなの?という疑問にいつも答えてくださって心強いです。
いつも先生、ありがとうございます。
淀川を遡上し、京都の南部に位置する淀浦に到着しました。淀駅近くには、朝鮮通信使が御座船から降りた唐人雁木旧跡の石碑のみ残されています。
唐人雁木というのは、朝鮮通信使が船から降りるのに降りやすく板状の階段を敷いたものを指すそうです。
淀藩のお役人だった渡辺善右衛門が描いた朝鮮聘礼使淀城着来図(京都大学文学部図書館蔵)を見ると当時の様子を窺い知る事ができます。
最近はデジタルライブラリーが普及して精細な昔の絵画を見る事ができまた細かい部分に焦点を合わせて閲覧できるのはありがたいですね。
淀浦の近くのお茶屋さんで休憩したという記事を見た事がありますが、お茶屋さんの絵画は探す事ができませんでした。
淀浦から1時間40分程歩いて実相寺に到着し休憩・衣装替えを行い、52分程度で昔の本圀寺に到着し宿泊したそうです。船旅を終えて更にこんなに歩くのは、朝鮮通信使にとっても大変な事だったと思います。
おまけに、通信使たちに書を求める人々が多数訪れ休む暇もなかった事だと想像できます。
絵本の中で通信使は、京都御所にて天皇には謁見しなかったと描かれているのが驚きでしたが、江戸時代の徳川勢力の強大さを知る事ができました。
京都の観光名所は、大抵歩いてきたつもりでしたが、通信使関連の芸術品を尋ねる旅、そしてお寺の扁額を訪ね歩く旅などを実施したくなりました。
今回はヨンウ先生が昼間に来てくださり、백범일지の「왕후장상영유종호(王候將相寧有種乎: 왕, 제후, 장군, 재상의 씨가 따로 있지 않음)」について詳しく説明してくださってありがたかったです。
いつも先生、ありがとうございます。
淀川が暴れ川で、昔から大規模改修されてきて今の大きな淀川になった事は知っていても、どのように変わってきたか迄は知らなかったので今回調べた事で、とっても勉強になりました。そして朝鮮通信使が自分たちの住む藩を無事通過できるようにした江戸時代の庶民たちの並々ならぬ苦労には感服しました。
殆ど今の木津川を遡上していくことになるので、大正駅から竹林寺を経由して、御堂筋の北御堂最後に通信使が下船した中之島まで歩いていきたいと思っています。
異国人が訪れるとあって大阪の街は見物人でいっぱいで、書を書いてもらいたくて、行列ができたり華やかな文化の交流が行われたようですね。
特に淀屋橋に広大な住宅があった木村 蒹葭堂は、日本の文人・画員を集めて面倒をみたりしていたのですが、朝鮮通信とも深い交流があったことが伺えます。
大阪について語ることが沢山ありすぎて、時間がなくなり、김구の백범일지は、少ししかできなかったので時間配分を今後気をつけていきたいとおもいます。
今回は年度末でもあり、参加者は少なかったです。
通信使一行は、淀川を遡る旅にいよいよ入ります。
淀川は船底が低いため、通信使の乗ってきた大きな船では遡上できないため、川御座船に乗り換えます。なんとその船が豪華だったことでも有名です。
現在の淀川とは全然違う流れをしているので、戸惑ってしまうため、大昔からと現在の淀川の変遷(何度も治水事業を行った等)のお話をしました。
昔淀川は暴れ川で、川の中に島が沢山できて、その島々を難波八十八島と呼ばれていて、今でも地名にその名残りがみられますね。
大阪に行くのは、大好きですが朝鮮通信使にゆかりのある名所は、ほとんど見過ごしてきました。
通信使が訪れた200年間には色んな出来事が起こっているんですね。玄界灘での遭難事故、若くして病死した김한중[金漢重]、故郷に帰ることができずさぞかし無念だったことと思います。
対馬の訳官・鈴木伝蔵が、通信使の崔天宗を殺害したという外交問題に発展したかもしれない事件もありました。
淀川を川御座船で遡上していくために、縄で引っ張ったり川底を掘削する作業も全て町人の力で行われたことも忘れてはいけませんね。
4月には京都に入っていきます。今更ながらの日本史の復習になることと思います。通信使のおかげで日本の儒学・医学が発展したことも学んでいきたいと思います。
ウォーミングアップの意味で『생활 속 한국 문화 77』は比較的簡単ですが、韓国の文化を知ることができるので、もう3年以上読み続けています。
通信使一行は広島県の鞆の浦→岡山県の牛窓と進み兵庫県に入って室津→兵庫津と海路を進みます。
通信使一行には、文才に長けた人もおり、立ち寄った土地に漢詩を残したりしています。
また、異国の人がやってきたという物目面足さもあり、また儒教や学問で優れている人がいるというので、書を書いてもらって行く先々で大人気のようでした。
何かの本にありましたが、現在韓流タレントが来日するとコンサートに行ったりサインを求めたりするのと同じだと言ってまっしたが、その通りですね。
この絵本を読んでいくうちに日本でさえ知らない・訪れたことがない場所がいっぱいあり、日本再発見して楽しんでいます。
地名は知っていたけど、一生の間に多分一度も訪れないで終わるだろうと思った都市がたつの市でしたが、昔通信使をしていた先祖がいる郷目付八瀬家には、対馬藩の通訳官だった雲明の書が残されていると知りました。雲明のハングルで書かれた書は、鶴橋の御幸森神宮の王仁博士の石碑のハングルの部分だと偶然知りました。ゆえに今月はたつの市に訪れてみるつもりです。
3月は大阪、京都、滋賀と進む予定でしたが、大阪には、朝鮮通信使にまつわるほのぼのとしたお話、悲しいお話、通信使を迎えるための地元民の苦労話など沢山ありますので、大阪だけにしておく予定です。
ウォーミングアップの意味で『생활 속 한국 문화 77』を読んでいますが、さて何を今月読もうか決めるのも悩みます。まだ春には早いので今月は、효도도 하고 여행도 가고を読みました。還暦のお祝いに一緒に旅行をしてあげようというお話でした。日本では大体的に両親と旅行に行くケースが少なくなって食事程度で終わらせていますが、まだ韓国では還暦のお祝いに海外に行ったりするのか聞いてみたいですね。
通信使の絵本は、鞆の浦→牛窓→室津→兵庫津と進んでいきます。
瀬戸内海の地域はどこも景色が美しくて行ってみたくなりますね。
鞆の浦を訪れた종사관[従事官]の이방언[李邦彦]が「일컬어‘일동제일형승(日東第一形勝(対馬から江戸までの間で最も美しい景勝地)」と述べたことで有名だと知りました。
福禅寺の対潮楼の座敷に座って瀬戸内に浮かぶ島をゆっくり眺めたいものです。
参加してくださったお友達が、仙酔島(仙人も酔うほど美しい島)もついでに訪れた方が良いと教えてくださいました。
通信使一行は、岡山県の牛窓に入っていきます。
牛窓には、ずっと伝えられている唐子踊りがあり、おそらく通信使一行の中にいた소동[小童]の踊りがあ伝わっていることでしょう。
はるか昔訪れた頃は、みかんとオリーブの実るのどかな街というイメージしか残っていませんが、通信使が立ち寄ったと知り、こちらも訪れてみたいと思いました。
姫路の近くにたつの市という都市があり、こちらも海産物が豊富で景色も素晴らしいようですが、訪れるには交通が不便なようですね。
来月は大阪、淀川と難波八十島についてもっと下調べをしなくては、生半可な知識ではダメなようですねえ。
ウォーミングアップの意味で『생활 속 한국 문화 77』を読んでいますが、来月は小正月が2月15日ですので、정월 대보름(小正月)の章を読みました。日本でもどんどんやきは行いますが韓国では쥐불놀이といって大々的に行うのが特徴です。
日本では小豆粥を食べますが、特別な五穀米をナムルと一緒にたべるようです。耳がよくなるように귀밝이술を飲んだり、부럼といって堅果類を食べると皮膚病にならないなどもあります。
他にも朝には「내 더위 사 가라!」(私の夏バテを買って!)と言って相手に夏バテを売る風習もあるようです。
通信使の絵本は、赤間関(下関)→上関町→下蒲刈に進んでいきます。
瀬戸内海の美しい島々を眺めながらの旅程は、朝鮮通信使の旅の疲れを癒してくれたことでしょう。
瀬戸内海は交通が不便ですが、朝鮮通信使の歩んだ道程を旅行したくなりました。
上関町でであったという佐々木という女性儒学者について調べてみましたが出てこなかったのが残念でした。
下蒲刈で朝鮮通信使に接待した食事が楽しめると良いかなと思い調べましたが、見つからず残念でした。
後半は、백범일지[白凡逸誌]の上巻をちょっぴり読みました。
豪放磊落な金九の父・김순영[金淳永]も数年後には、病気にかかると思うと残念でならない気持ちでいっぱいです。
次回は、ちょっぴり백범일지[白凡逸誌]の上巻を長く読めるように時間配分を考えて資料作りをしていきたいと思います
昨年12月壱岐島・藍島(あいのしま)を紹介させていただきました。
今回は、赤間関(下関)→上関町→下蒲刈と進んでいきました。
なんといっても下関には壇ノ浦の戦いで敗れた平家の悲しい物語がたくさん残っていますよね。幼くして亡くなった安徳天皇の死を悼んで朝鮮通信使が漢詩を詠んでいるとは知りませんでした。
ソウルの国立中央博物館には、《사로승구도(槎路勝區圖)》が所蔵されているそうですが、なかでも赤間関の風景には見せられてしまいます。その絵画の模写が今でも綺麗な状態で保存されているのにも驚きました。
上関町には、学問好きな少女がいて、寸暇を惜しんで学んでいたそうですが、朝鮮通信使に漢詩の返答を書いてもらい、その後も朝鮮通信使が上関町に来ることを待ち望んだ少女儒学者のエピソードにみなさん感心していたようです。
更に通信使は、東に進み山口県に入ります。下蒲刈という海に面した町では、삼즙오채
(三汁五菜)と呼ばれる豪華な食事で接待が行われたようです。通信使が江戸に到着した際に、一番美味しかった晩餐は下蒲刈だったと言われている方ど素晴らしかったようです。
来月は岡山県に入っていきます。
後半はいつものように백범일지[白凡逸誌]の上巻を少し読みました。
まだまだ金九の父・김순영[金淳永]と兄弟のお話が続きます。
酒を飲んでの失敗は今ではそれほどおおくありませんが、当時は頻繁に起こっていたことが伺われます。
来月から学問を始めた金九のエピソードに入ります。
じっくりゆっくりやっていきましょう。